作家のひとり言/過去帳

File No.1 1999年に綴り書きした「君」という二人称をテーマとしたポエム
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「君」は「君たち」という複数形から変換された詩的心象表現であり、私において、
ポエムを綴ることは、 熱き水草たち・熱き魚たちを育むことと、同じ道程なのです。

                              Photo&Poem by Tatsuo Miura / Thanks アクアズーム 
アピストグラマ・エリザベサエ 君が アピストグラマ・ビタエニアータ

君がいないとはじまらない
一日がはじまらないのだ
水を運べない水車のように
感傷に浸る抜殻なのだ

君がいないとおわらない
一日がおわらないのだ
風を受けられない風車のように
茫然とした無意味なのだ

なぜって
何億光年も彼方から
君を好きでいたから

  

subfile No.2 【 File No.1 subfile No.3 subfile No.4 subfile No.5 subfile No.6 ホーム 】

君に

もう二度と感じ得ない動揺だと思う
答えてくれない君の正しさに感謝
答えられない君の勇気に感謝
惑星の軌道を外さないように 君は回る

僕が車軸を緩めたら
君のはりつめた 貴重な精神は
いったいどこまで飛んでいくのだろうか
何億光年も 彼方
君を好きでいた時空までいってしまうかも知れない

君の確かな感覚を大切にしたいと思う
惑星の軌道が外れないように 僕が車軸を回せばいいのだ

subfile No.3 【 File No.1 subfile No.2 subfile No.4 subfile No.5 subfile No.6 ホーム 】

オテリアの花 君を

君を好きでいると宇宙空間が変わる

ブラックホールが生まれた
胸のど真ん中 心の臓にちかいところ
かなりの痛みを伴う

探している
惑星との距離を保ちながら
君とひとつになれる法則
見つけている
僕の車軸を緩めずに
君と絡まりあう法則

実は
君のもつ引力のほうが
はるかに大きいのに・・・


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アピストグラマ・トリファスキアータ 君の アピストグラマ・ヴィエジタ

発信と受信の先端に
君のなまえがでている
このたわいないことが
僕をよろこばせている

いつも君の手で遊んでいたい僕が
そうできないもどかしさから
このたわいないことで逃れている

受信の先端に
君がいることで
不思議とした安堵感を
一日中抱えられるのだ

宇宙の中の
ちいさな よろこび・・・

  

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こどもの時代 思惑から放された小石が
春の陽を抱えながら 水面を飛行して
やがて消えてゆく さびしさと すてきさ
この胸のいたみの中にいるのは 君

さびしさは かぎりなく成長して
傷つきながら 幾重にも重なっている
すてきさは 夢の夜空で オーロラのように
みえかくれの リズムを刻んでいる

たった一度の人生なのに
願いごとは委ねられまま動こうとしない
放そうとする うれしさと かなしさ
この胸のいたみの中にいるのも 君
うれしさは こどものステップのように
いつとぎれても その余韻は心地いい
かなしさは なくしてしまった玉手箱
朽ち枯れた木の葉が 地球に帰るような・・・

     

subfile No.6 【 File No.1 subfile No.2 subfile No.3 subfile No.4 subfile No.5 ホーム 】

アピストグラマ・エリザベサエ 君から

僕がよりよい決定するために
君からひきだすものの いくつか
素直さ とびっきり無垢な反射と受光 情熱 
僕を驚かせるほどの激しさ
手を繋いでくれるのは 君の曖昧さではなく
キャッチしきれないでいる 君のなかの素直さ
答えてくれないでいるのは 君の冷静さではなく

見えすぎている 君のなかの情熱
動かしようのない 互いの立場から
本音を遮断する 人的な反応
語り合う時間もないままに消そうとしている
君は 君を見れないでいる



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                         Photos & Text by Tatsuo Miura /Thanks アクアズーム

はじめに

水草の奏でる『本音』をこの耳できけたら、どんなにか素晴らしいであろうか・・・・。
私たち人間という生命体は、大半の『ものごと』を視覚のみで理解できるという忌まわしい錯覚を持ち続けながら、この地球上に存在している、悲しい細胞である。たとえば、私は、わたしの皮膚感覚で君の『いたみ』を察知し、しかも癒してあげられるであろうか。
また、わたしの聴覚で10cm先の君の『なきごえ』をききわけ、臭覚で、溶けかかった君の葉先から放たれている救助信号を察知できるであろうか。答えはすべて『否』であった。『私』側からだけの推測や勝手な判断で、君たちの純粋な細胞を『美しい』とか『希少』とか『育成云々』とか言い続けていた一人として、反省の意を表明し、私はここに『水草の本音』を語ろうと思う。

人間の判断の80%は視覚によってなされている。残り20%は聴覚、臭覚、触覚(皮膚感覚)等である。仏教でいう『わび』『さび』は、この後者の20%のみの判断をつかって、世界を表現している。同じように、『水草の本音』を語るにも、この20%のみの感覚でとらえなくてはならない。水草は奥深い趣味である、『たてまえ』を言い張るのは私たち人間だけで、水草は『本音』しかみせてはくれないのである。
ここで語ることは、私の勝手な愛情をしっかりと受け止めてくれる、君たち『熱き水草』への感謝である。君たちを擬人化して私の夢想を語るのでは無く、実は、君たちと一体化している私を語るのである。

多くの水草の本音

突然だが、楽器の本音を知っているであろうか。たとえば、弦楽器はピンと張り詰めた弦が振動する過程で本音を響かせている。奏者の主神経の代弁者としての存在となり、弦楽器、とりわけて読者諸氏の大半が一度は触れたことのあるギターの本音は、奏者の主神経そのものであろう。6本の弦に触れることで、奏者は自らの主神経を震わせているのである。つまり、各種の弦楽器は、人間そのものの主神経を響かせる存在として位置されている。
私は、すべてのものごとを自分の人生で体験した何かにあてはめて解釈する癖があるらしく、『水生植物』すら『音楽』というジャンルに交換して凝視している。もう、お分かりのことと思うが、たとえば『有茎種』の大半を『弦楽器』に変換して、日々育成している。
私をアクアリストとして世に問うてくれたホシクサ科(Eriocaulaceae)のトニナSP(Tonina sp)は、モーツアルトのケッフェル304番をヴィオラで奏でたら、気紛れなモーツアルトよりもさらに気紛れなモーツアルトが見られるのではないかな、という思いつきからの育成であった。
だから、『育成困難』というレッテルは私の感知し得ない表現である。各種宣伝で『トニナSP育成成功』などと、さも『凄いだろう』表現を見ると、『お馬鹿さんね』と思わずにはいられない。何よりも、愛することが大事であり、育成成功の狼煙を上げる事は、『熱き水草』に対して失礼である。現に某ショップでは、水草を始めてひと月程のビギナーの方々がトニナSPの美しさを楽しんでいるのである。美しい水草を一人でも多くの方々に育ててもらいたい、というのが水草を愛せるアクアリストたちの願望である筈である。

多くの水草の生活形態を考えてみると、実に興味深く、彼らの居心地の良い環境設定を理解してあげられる筈である。抽水性植物、Emergent Plantは、必ずや自分の体の半分以上を気中に出しての生活を望み、それを可能にしてあげられない水槽では可哀相である。ましてや、パンタナルのレッドピンネイトのようにピンネイトという仮称を付けられた種に関しては、もっと悲惨であろう。この美しき水草は、水面上に顔を出すとルドウジアの様に卵形の葉に変身して、レッドピンネイトという仮称が示す真っ赤で針形の葉は、昨日の夢と化してしまう。流れていた『ヴィバルディの四季』が、『三味線の小唄』に変ってしまったような錯覚を受けたのは、私ひとりではないであろう。だからといって、君に失望したのでは無く、君の適応能力の凄さに驚いている。

ただ、『どうして、もとの形に戻らないのかい?』。君は答えて言った、『ぼくの黄色い小花は、この衣装でないと似合わないもの、再び水の中に戻れるほど僕らの先祖は歴史をもっていなくて、この地球にもっともっと繁茂するためには、地上突入が使命なんだ、まだまだ進化の途中だから・・・・・・。』初期の水生植物は、陸上生活に適応して進化をとげている。それらの種は再び水の中に戻り、生活を営む、再適応進化を経ている。
であるから、読者諸氏が水上葉の水草を購入し、水中適応形の葉、詰まり水中葉の展開を見れる種は、何億年以前から進化し続けてきた初期形水生植物なのである。(これは水草との会話によって私流に表現したもので、科学的根拠は皆無であります、くれぐれも誤解のないように)仮称レッドピンネイトは後期形水生植物のため、再び水の中へと再適応するにはあまりに陸上体験が少なすぎる、と言っている。ヨーロッパの科学をしても大量生産出来ない水草の種の多くは、この種の水草のように思われる。育成困難なのでは無く、彼等の歴史が進化の途中だからなのである。

初期形水生植物の時期は化石 等の研究から、新生代第3期と見なされており、中には途中で進化が止み、原始的な形のまま水中生活オンリーの種もいる。沈水性植物、Submerged Piant の多くは、これに当てはまる。サナダゴケ科、Plagiotheciaceaeの筆頭であろうウィローモス、Fontinalis antipyretica は、 打楽器のようなリズムを常に打っていて、人間の心臓の鼓動を聞くようである。特に、南米産ウィローモスは手首で打つ脈拍のように、意識しなければ聞き取れない程の静寂さを好み、私に語りかけてくれる。
『わたしはゆったりとしたハンモックの上にいるのが好き、紐で結わかれるほど辛いことはありません。ほら、またリズムを間違えてしまった・・・・。』彼には水生植物の多くが持つ仮の姿が無く、常に一つの面でいたいと願望している。
『ゴメン、ゴメン、君がリズムを間違えたのではなく、私が変えさせてしまったんだね・・。』
打楽器は、奏者そのものの鼓動を表現している。奏者そのものの鼓動が打楽器の本音であろう。『沈水性植物』を『打楽器』に例えているには理由がある。
彼らにはメロディを奏でられる手立てがなく、たとえば、日常抽水性植物のように生活をしているが、一端増水が始まると水中葉とは違う水面まで伸ばす浮遊葉を作り、さらに水かさが増せば沈水性植物のように、水深く生活できる葉を展開するコウホネのような器用さも、特殊適応性もないからである。常に同環境条件を求めている、水の中のリズム打ちである。
『いつも同じ光と同じ水流、これが私の喜びです。』と彼は語る。

昨年の夏、某誌面にも連載されていたように、『アマゾンの水草とアピストを語る、野鳥の会』の方々が、持ち帰った水の中に紛れ込んでいたタヌキモ科、Lentibulariaceaeに位置するであろうパンタナルのタヌキモ(Utricularia sp) は、管楽器の音色のように今日も呼吸をしている。管楽器は人間の息づかいそのものであろう。奏者の呼吸、息、吐息、溜息、全身の風を表現するのが、管楽器の本音である。捕虫のうをつけ自らの吐息を私に送るのである。
『僕は植物、虫ではないよ、こんなに栄養のない水じゃ生きられない、もっともっと御飯が欲しい・・・。』捕虫のうをつけるからといっても彼らの本質は植物そのものである。
『光合成のみで生活できれば、捕虫のうなんかいらないのだね。そうか、栄養のない水だから捕虫のうをつけて、違うかたちで栄養をとっているのか。だから、こんなにも水槽によって形をかえるんだね。』彼に対して、私の理解度は正しかった。彼の成りたい姿にさせて上げることが出来るのだから・・・・・。『野鳥の会』も捨てたものではない。
水草は、葉等の葉緑素が正しい光を受光して、光合成をおこない、COと水、及び水中に溶け込んでいる塩類を頼って自らの体を作っている。そして、限られた器の中でも、己のDNAをこの地球上に残すというインプットされた使命を果たすべき、実に高い適応能力を持っている。様々な形の葉状を展開しながら、私たちアクアリストを魅了させてくれるのである。
だが、これは私たち人間の一方的な見方であって、もしかしたら、限られた器の中に閉じ込めることで、彼らの進化の妨げをしているのかも知れない。
だから、愛さなくてはならない。生き生きとした姿でOを立ち上ぼらせる生命の息吹を、一人でも多くの人達に知らせなければならない。
君たちと人間社会との関わりは、古代遺跡に発掘されるハスの実をみても分かる通り、有史以前の出来事であった。食されていただけの君たちが、本来の美しさを現代社会に見せつけ、私たち人間を虜にしている。私たち人間の勝手な動向が、何憶年も変わらずにいる君たちを常に必要として来た。
読者諸氏には大袈裟に思われるであろうが、感謝、感謝である。
私には日々水槽の部屋に入る前に必ず言う言葉がある。
『さあ、水の人になるよ。』私なりのアクアリストの条件を述べよう。
『魚』を飼える人、『水草を育成できる人』皆がアクアリストなのでは無く、『水を看れる人』がアクアリストなのである。
しかも、『水』を科学的に検知する必要性はほどほどでよく、学問的なソフトバンクである左脳の活用は、学者でない限り、返って邪魔になる場合もある。感性を支配する右脳の活用が、私にとって最高の発想と驚嘆と、しかも歓喜を与えてくれるばかりか、十分な記憶となる。

水草の毛根や、繊細で密な葉の林は、小魚たちの生活領域となり、水を脅かす有害な物質を分解し、光合成によって豊かな酸素を放っている。こうした彼らの水質浄化の役割が、生物的連鎖の水域をつくる柱となっている。これらことを踏まえてみれば、次のことに気づくであろう。
私たちアクアリストの役割は、科学の領域であった生物的サイクルの概念を、『熱き水草』を介して、更に、一般教養としてこの社会の中に組み込むことにある、と。
水草が喜び、笑い、ご機嫌良く鼻歌まで歌う、なんてことを本気で言っている私は、君たちを通して、『自然』をもっともっと愛したいからに他ならない。単なる人工的なガラス内部の『出来事』ではなく、水の流れや、大気中をよぎる風、光りを浴びる葉の表皮のやすらぎ、茎に空気を溜めて呼吸を開始し直立する素朴さ、私たち陸上生命との遥かな対比、これら混同のない『自然』を肌で感じることの『大事』なのである。

『自然』という、大きなものを愛すること、このことを気づかせてくれた君たちのちいさなちいさないのち、単なる趣味とか興味とかでは片付けられない責任を負って、精一杯君たちを感じている。十分な光りと澄んだ水、緩やかに溶け込む加減の良いCO、からだを維持し成長を促す栄養、これらすべては、君たちが当然受け取れる『権利』である。君が枯れ始めるのも、こうした『権利』を無視されたための自己主張であることを、もっともっと私たち人間に訴えなさい。

『難しい草』等と表現されて販売されている水草の多くは、販売店への入荷状態の悪さに加え、販売店での育成維持の無頓着さにあると、私は大声を上げている。読者諸氏の中で状態の悪い『魚』を購入する方がいるであろうか。たとえ、その個体が珍しい『魚』であったとしても、購入するには躊躇せざるをえないであろう。『水草』も同様なのである。状態の悪い『魚』も『水草』も、立ち直らせるには大変である。その大変さを加えて『難しい草』と呼ばれている珍草も少なくはない。
こよなく水草を愛している方なら、このことの判断が、読者諸氏の購入の仕方や、水草販売店への商品管理をただ単に批判しているのではないことをご理解いただけることと思う。『水草』の美しい姿、珍しい、愛らしい姿を見るのではなく、『水草』の『いのち』そのものを凝視するのである。
立場上、君たちの代弁のいくつかは非常に辛いものもあるが、私自身の反省も含めてアクアリストの方向性を問わなくてはならない。君たちは、自然そのものであり、ガラスの中に閉じ込められようとも、私たち人間に『生きざま』を示している。同様に私たち人間も自然そのものであろうか、君たちに『生きざま』を示しているだろうか。
この地球上に存在している生命のすべてが『自然』であるならば、私たち人間だけが卓越した『別種の自然』であるはずがない。
人間だけに与えられた特権と思考する頭脳をあたえられた特別な進化、これらはこの地球全体を守る『特殊生命体』としての存在証拠である、と君たちは絶えず私に訴えている。
近年の人間社会の産業、商業の多様化につれて、輸送手段が活発化し、様々の国籍の人々の交差と同様、君たちも様々なかたちで原産地を離れ、帰化、もしくは定着を成し遂げている。君たちの持つ高度な適応能力が証明されている訳だが、悲しくも君たちは自力で故郷へとは戻れない。
同様に、私たち人間も他国の地に帰化、もしくは定着する環境適応能力を持ち、そのことを示している多くの方々に出会う機会もあるのだが、私たち人間は、自力で故郷へと戻ることができる。
だからこそ、君たちの『いのち』を守らなければならない。君たちの『いのち』を守り、愛することが、私たち人間を含めたこの地球上の生態系を壊さない、素敵な仕方なのである。

おわりに

とりとめもなく、『水草との語らい』を書き綴りましたが、さぞやお困りの方も多いでありましょう。私は、酩酊している訳でも疲労困憊している訳でもなく、冷静に、『水草を愛している』一人として、存在していた過去から、『水草を愛して欲しい』と呼び掛ける一人となった現在まで、1000人以上ものアクアリウムを趣味としておられる方々との出会いを体験し、感激したり、激怒したり、落胆したり、 受身は様々でありますが、多くの人たちは、『いのち』という言葉のもつ意味合いを理解し、大切にしていることに気づきました。
ただし、『水草のいのち』という表現になると反応は三つに別れていました。『そうだったんだ』と気付いてくれる方、『そう思う』と理解していた方、『・・・・』と無反応の方々です。勿論、私も絶えず同状態での問い掛けではないので、正しい判断はできませんが、美しいものを見る生き生きとした眼は、紛れもなく『いのち』の尊さを知っている眼でありました。
それは『自然』を愛する眼であり、ちいさなガラスの中にでも感じ取れる、美しい『いのち』を見る眼であります。だからこそ、自分の側に置いて毎日見ていたいのです。
無意識のうちに水の中に入ってゆく、あなたたちの手が、この地球を守るのです。
これからも何万人の人たちと出会うことができるであろう、私の部屋からのメッセージとして、書かせていただきました。
水面を漂う、ちいさな限られたリシアの一群を見て、ちいさな子供が、指差し、言っていた言葉を思い出しました。
『お父さん、ほら、そこに雲!

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File No.3 ちいさな「地球」の誕生  File No.1へ


Photo & Text by Tatsuo Miura/Thanksアクアズーム

私たち人間が命を見つめることによって、この宇宙船地球号の安全運行(地球の将来)は確実になると信じています。しかも、同じ乗組員(地球)として、ここに泳ぐ魚たちや水に身を委ねる水草たちに失礼のない意識が必要であると感じています。
この地球は、生き物たちのバランスで回転しています。つまり、それらは地球号運行(地球存続)のエネルギーの要なのです。
私は、この小さなアクアリウムを通してこれらのことに気づきました。バランスの上に成り立つ世界 魚と水草を観察したいという願望からアクアリウムは誕生しましたが、学術的、または趣味的レベルからの脱却は、現在においても完全とは言い難く、 この地球号(地球)から落下するいのちたちは数知れないと思われます。でありますから、私は、水槽作家という肩書きで地球号(地球)の中に、 ちいさな地球号(地球)を創り上げることを使命として専念しています。このタンクの中の、 いのちのバランスを、つまり、ちいさな地球号(地球)を回転させるためのエネルギーを誕生させることに他なりません。
限りある材料で製作していく過程は、大げさな表現をさせていただければ、地球誕生の縮小であるかの様に思われます。
この過程において重要なポストを握るのは、私たちの「想像力」です。しかも、地球号(地球)にふさわしく、 万物に失礼の一点もない「想像力」が必要なのです。この「想像力」をアクアリウムの中に注ぎこみ、私たちの地球号(地球)は回転し始めます。
子供を見守るアピストの親 ちいさな「地球」の誕生です。 この小さな地球号(地球)の回転は、 一人ひとりの自然への優しい意識によって、大きく左右されるのです。 さあ、どうぞ、一人でも多くの方の乗船を(がアクアリウムの世界へ誘われることを)待ち望んでいます。



ーテレビ朝日「素敵な宇宙船地球号」放映コメントよりー
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